亭戯譚

文の保管庫

呉幹夫

呉もはじめは心優しい男であった。でないなら、探偵業などするはずもない。実際、ほかの嫌がる雑務みたいな仕事も、歓んで引き受けていたのが呉だった。
 呉を知る人間のほとんどから、嫌味もなく「先生」と呼ばれていたから、この辺りで先生と呼ばれるものがいれば、子供と病人の話にのぼるもの以外は、呉のことであるに間違いは無い。
 今の呉は27であるので、探偵業を初めて7年ほどになるのだが、先ほどから、”であった”、などと言っているのは、まさに今現在はそうでは無いからである。
 具体的に言うならば、約2年前の、呉が25の頃から、心が狂いだしたのであった。呉を知る人間が有るのならば、きっと彼らは、
「呉が狂ったのは、妻が死んだためだ」
と言うだろうのは、全く想像に難くない。

 さて、この話を語るには、妻の話からせねばならないのであるが、この呉の妻━━名前はヨヱ子と言い、茶色の髪のきれいな娘であった。子供の肌の赤みをほのかに残しつつ、あどけなさの抜けない可愛らしさがあったので、街の人からも随分とちやほやされていたが、今度結婚すると言うから、相手が誰かと聞いてみると、
 「実は、前々からお付き合いしておりました、呉さんとコノ度......」
 と頬を赤らめながら言われては、誰もが祝福しないわけもなかった。
 挙式は、呉が22ほどの時にした。街の人気者二人の式とあって、この日は騒がしい商店街の通りからも、人の気配が消えていた。
 代わりに、結納のための式場にはワンサカ人が集まって、二人の晴れ姿を見ようとするものだから、先にヨヱ子の方が参ってしまって、結局式は、街の一番に大きな体育館を、町長のご厚意で貸してもらってから、そこで行うことになった。
 昔気質の店主なんかは、この日は店をすっかり閉じてしまって、がらんどうになった店の中から、商品を一つ二つ持ち出して、祝いの品だと言って積まれたものが、こんもりと山を作っていたのには、呉も苦笑した。

 式が終わり、同棲するようになると、呉はますます働くようになったし、箱入り娘であったヨヱ子も、慣れない家事を習いながら、幸せに暮らしていた。
 同棲してから五年経っても、まだ初々しくて、お互いにチョット触るのも、気恥ずかしくてはばかるような二人であったから、この頃にはもう、ヨヱ子の腹には子が居たのを疑う人も多かったが、それも、ヨヱ子の係医者が、
 「アノ二人も、やっぱり人間らしいねェ。前にヨヱちゃんが来た時に、どうももじもじして、なんだかばつが悪そうだったから、......ドウシタ、何か、まずいことでも......と聞いたら、━━イエ、ソノ......体の悪いのはどこも無いんです、ただ━━
 って言って、お腹をさするものだから......こちらも察して、小躍りしてしまって......
 アハ、アハ、アハハハ......それで検査してみたら、本当に赤ちゃんがおったのよ......」
 と、言うのが、いつの間にか広まっていたので、もはや嘘と言う人もいなかったし、探偵事務所には連日、祝いの電話が鳴り響いてしまったので、どうしてばれたのか......と、二人だけが頭をひねらしていた。

 その頃にはもう、呉も25であったから、事件が起こったのも、またこの年である。
 11月下旬の、空気の乾いた夜だった。いつもよりも冷え込むので、呉は珍しく、冬の時分には決まって着るトレンチコートに加えて、この年の誕生日にヨヱ子にもらった、赤と黒のマフラーを巻いていた。
 この日は、日頃世話になっている警部から、殺人があったが、どうも犯人がわからないので、ぜひ力を貸していただきたい、との依頼で、それもこの日の夕方に連絡があったものだから、どうも仕事が長引いてしまって、平時よりもずっと遅くに帰ってきた。
 お土産の赤福を右手に提げて、明日の朝にでも一緒に食おうと考えていたが、帰り道、呉の家に近づくに連れて、あたりが騒がしくなるのに気づいた。
 街の人らが一方向に走っていくので、その方角を見てみると、どうにもそちらのある一角が、祭りみたいに明るくなっているのが見えた。だが、それをもっと詳しく見ることには、祭りでは無いのは確からしかった。電灯にしては赤く、強かに光っており、そこからもうもうと黒い煙が立ち上っているのが、遠目にも確認できたので、どうも一軒、大火事に見舞われている様子であった。

 それも、燃えているところと言うのが、呉の家の方と全く一緒の方角だったから、探偵業をしている呉の脳には、すぐに最悪の事態の情景が浮かんだ。
 と、同時に、呉は顔面蒼白して、脳裏の情景を、無理やりに引き離すために走った。ビニール袋の中の赤福は、すでに蓋が開いて、ぐちゃぐちゃになっていた。
 呉は走った。走った。がむしゃらに走った。街の人とすれ違うたびに、いたたまれぬ顔をしているのが分かってからは、さらにイメージは強固になった。
 それも考えないように、ただ走った。目指すのは、呉の家であった。冬の冷気が肌を刺し、もはや痛いほどに顔が冷えるけれども、かえってそれがありがたかった。夜の商店街に入ると、結婚祝いの贈り物が、フラッシュバックした。情景と相まって、さらに呉のうちの悲壮感が増した。商店街を抜け、ヨヱ子の係医者のいる病院の前を通った。駄菓子屋を、文具屋を、友人の家を、次々通り抜けたが、そのことごとくが留守であったか、呉の行く方向と一緒のところへ駆けていくのが見えた。

 やがて、夜の黒色よりも、火のあかあかとした輝きの方が大きくなって来ると、流石にあたりも煙たくなって、人だかりもでき始めていたので、走ることはできなくなったが、群衆の中の誰かが呉に気づくと、周りに知らせたのだろう、皆んなが呉の方を見るなり、神話のモーセのやるみたいに人が掃けた。
 その間を、青虫の這うように力なく呉は歩いた。これまでの事柄から、ある程度のことは呉も推理していたのに相違なかった。常にしゃんと張った呉の背が、猫みたいに丸まって、通常時は2mほどもある長身の見た目が、やたらに小さく感ぜられた。
 周りの憐憫の目が痛いほどに向けられているのが、呉にもわかった。そこに、
 「可哀想に......」
 であるとか、
 「どうして、呉先生の......」
 と言う声が聞こえて来るので、いよいよ足取りは、一歩ごとに倍々に重みを増した。

 この時には、不思議と涙は出なかった。長い人の間の道を、ゆっくりと、五分もかけて通り抜けると、天井や外壁の燃え落ちて、骨組みが露わになった、無残な呉の家がそこに見えた。
 あたりには、消防車や、救急車が、獣の遠吠えに似たサイレンを、けたたましく鳴らす音が響いていた。......救急車。そうだ、ヨヱ子は......ヨヱ子は寝ている時分であるのに違いない......ヨヱ子は、ヨヱ子は......
 呉は近くの消防隊の男に、掴みかかるような剣幕で尋ねた。
 「ヨヱ子は、ヨヱ子は、どうしたのですか。
 僕の家はこの際どうでも構いません、ヨヱ子の身は、大丈夫なのですか......ヨヱ子はア━━」
 言い終わるよりも先に、呉の家の裏口につながる、細い路地裏の方から、一つの担架が運ばれてくるのがわかった。
 「アッ......」
 
 呉が言葉を失うのにも無理はなかった。担架に乗っていたのは、皮膚の真っ黒に焼けて、もがきもしない、一眼で死体とわかるものであった。腹は大きく膨れていて、そこから子供のものであるらしい、小さい手のようなものが、ちらりと覗いている。
 「ア、アア、ア.......」
 よろよろと駆け寄るのを、止める人は誰もいなかった。担架に縋り付く呉を、救急隊さえ諫めようとはしなかったし、諫めることもできなかった。この場の誰も、呉にかける言葉の一つも持ち合わせてはいない。
 「アア......ヨヱ子、ヨヱ子......僕が側にいないばっかりに......
 ごめん......ごめんなア......せめて、すぐそちらにいくから......」
 立ち上がって、燃える家の方を向いてから、初めて呉は、涙の一筋を頬に走らせた。

 茫然自失の足取りで、呉が歩みを炎のほうへ向けるのを、今度は止めない人などなかった。ヨヱ子に続いて呉先生まで失っては、この街の皆んなが悲しみに包まれるから、と言うのではないが、それに近しい感情で、消防隊の男衆が、
 「アッ......呉先生!いけません......それ以上そちらへ行っては!......」
 と叫ぶのを、呉は一切無視して、よたよたと夏の火引虫みたいに、火に近づいて行ったら、今度は野次馬連中の中から、
 「呉先生!......待って下さい!ヨヱ子さんのあとを追うのは!」
 「ヨヱ子さんの一番悲しむのは、生きたあなたが自死することではないですか!......」
 口々に叫ぶものが現れたが、呉にとっては煩わしい叫声であった。......アア、悲しむだろう、だがそれは最早、僕に取ってはどうでもよいことなのだ......今僕ができるのは、......
 深い、深い絶望が、呉の心を呑み込む様子が、周りの人間にも見て取れた。と、思うなり、野次馬から一人が飛び出して、呉の右腕を抑えた。
 「エエイ、離せ、離せ!......どうして君らに僕が止められる!......」
 飛び出してきたのが、
 「呉先生!......呉先生!どうしてもです!どうしても止めなければなりません!......
 ヨヱ子さんだけでも皆、悲しんでいるのに......呉先生まで行ってしまったら!」

 その言葉に感化されたのが、野次馬の中から一人、また一人と飛び出してきて、呉の体を、左腕、右足、左足、腹......と言った風に、空いているところを掴んでいくものだから、非力な呉は、取り押さえられるような形になった。
 「呉先生ッ!......呉先生!いけません!」
 「あなたの命を投げ出してしまえば......ヨヱ子さんの浮かばれるはずもありません......!」
 「呉先生━━ッ......」
 呉に被さる人たちの声を、かき消すようにして、
 「離せ......離せェ━━━━ッ......
 畜生、畜生、畜生......ヨヱ子......ヨヱ子━━━━━━ッ......
 どうしてヨヱ子だけ......畜生......
 僕もオ、僕も殺せエ━━━━━━━━━ッ......」
 非力な慟哭が、寒空の曇天に響いた。......

 呉はその日から、自殺衝動に駆られるようになったので、精神病棟の方に隔離されるようになった。病院にも呉の名は知られていたので、あの探偵先生がここに......と、驚く人も少なくはなかったが、しかし、事の顛末を知らない人の方が少なかったから、それを茶化すのも、本人に経緯を聞きにいくのも、一人もいなかった。
 犯人は未だ捕まってはいないが、現場近くに不審な一斗缶が転がっていたので、放火であるとの噂が絶えない。実際、警察の方も、放火であると見て捜査を進めているらしいから、あながち聞き流すこともできない話である。
 呉の見立て通り、ヨヱ子も寝ている時間だったから、もがいた跡もないので、せめて苦しまず死んだのだろうと言うことを解剖医から言われたのが、ただ一つの救いであった。

 それから一年後に呉は退院して、街の外れの方の、一軒家を買ってから、そこで人に会わないように暮らすようになった。
 いたずらに、これまでの探偵業で稼いだ金を使って、家具やら、食い物やらを取り寄せていると言うのが、街の人の間で交わされている話だった。
 自暴自棄であるのは想像に難くなかったが、しかしそれも、ある時を境にぴたりと止んだように見えたし、これまで人に会わなかったのも、呉の助手を名乗る男が、呉を台車に乗せて無理やり引きずり出してくるので、仕事もきちんとやっているらしかった。
 しかし顔つきははっきりと変わっていて、はつらつとしていた目は、半分だけしか開かれないようになり、元々綺麗であった面構えに、陰気な色気がさして、まるで妖怪みたいな人になってしまった。
 背は曲がったままであるし、口調もぼそぼそとするようになったが、それでも探偵呉が復活したとあっては、喜ぶ人も多いものだった。

 さて、助手を名乗る男なのであるが、呉にいくら聞いても、何も答えようとはしない。
 だが、髪の色や、雰囲気や、無邪気な性格などもそうであるし、何より、呉が彼を見る目が、彼にヨヱ子の面影を重ねていると言うのは知れる。
 どこで会ったのかも、言おうとはしないので、これ以上語れることはないのであるが、助手がかつての呉を取り戻すのを、期待している人は多いのだろう。━━

━━ここから先は、誰も知らない。